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本文へジャンプ 松商監督 小林正則  

『佐々木先生への手紙』その1(原文は手書き)


拝啓
 朝夕めっきり涼しくなってきました。しばらく前の厳しい暑さが嘘のようです。
突然の手紙で申し訳ありません。私は、長野県松商学園高校テニス部顧問の小林正則です。
長野県の専門委員長下岡先生より「松商の関係の記事が出ている」とメールをいただき、早速(昨日9/25)コンピューターに向かってHPを開き「Kさんのこと」を読まさせて頂きました。
本当に感激しました。北野さんが卒業して約10年にもなるのに。
そして、長野から遠く離れた北海道の高校にて・・・。
北野あすかさんの思い出は、今でも色濃く残っています。周囲に与えた影響も強く、そして現在も挑戦し続けている彼女の姿には、感動させられます。
北野さんを紹介していただいた感謝の気持ちを込め、また、もう少し北野さんを知っていただけたらと思い、ペンを執りました。
押しつけがましいかも知れませんが、読んでいただければ幸いです。
 北野さんは長野県諏訪市で生まれました。(その後松本へ)生まれたときから左手が、肘までしかありませんでした。お母さんは、あすかさんを抱きながら、毎日泣いていたそうです。
しかし、本人は、周囲の心配をよそに、周りの子供以上に元気に育っていきました。幼稚園時代の先生から、元気の良い北野さんの話を聞いたこともあります。
中学校時代はソフトテニスの前衛で活躍し、県大会に出場した経験もありました。
中学3年の秋、ソフトテニス部顧問の南原先生に連れられて、本校の練習を見学に来たのが、私にとって北野さんとの最初の出会いでした。
練習後、感想を聞くと「楽しそう」でした。
 高校に入学し、ストロークやボレーなどは、持ち替えなしの、ワングリップで行うとして、サービスが問題となりました。
「左ワキにラケットを挟んでおいて、右手でトスを上げ、すぐに右手でラケットを持ち直して打つ」
以前、このようにサーブを打っていた選手を見たことがあり、同じ方法で練習に取りかかりました。「これでサーブが今日入ったら、私泣いちゃいますよ」と、笑顔で練習を開始した彼女の顔は、次第に曇っていきました。
「まぐれでも良いから、1球だけでも・・・」と、私も願っていたのですが、とうとう、その日は、1球も入りませんでした。予想以上の困難がありそうな、予感もした日でもありました。
 ジュニア時代からテニスをしている生徒が、同期に1人居るだけで、1つ上の学年も、皆、ソフトテニスからの転向組でした。しかし、厳しい練習を重ねて、1年次の秋に行われた全国選抜北信越予選の準決勝で、チームは仁愛女子(福井)にも勝ち、全国大会にも出場しましたがました。が、北野さんは補欠でした。
選手として出場したのは、2年次の選抜大会からです。ちょうど先生が北野を見られたのも、この選抜の全国大会ではないでしょうか。
ダブルスbQで出場し、1、2回戦の接戦を勝ち抜いて、富士見高校(東京)とのベスト8進出をかけた試合でも、本当に良く健闘しました。
また、3年次の山梨インターハイでは、団体戦のダブルスで活躍し、四天王寺(大阪)とのベスト8決めでは大接戦となりました。結局ダブルスは3−4から2ゲーム連取され、3−6で敗れましたが(その時、bPシングルは4−2アップで打ち切り)春夏連続のベスト16進出を果たしました。
(半年後の全国選抜大会で、四天王寺高校と準決勝で対戦しました)
 サービスは2年の夏頃から安定してきました。あきらめずに練習を続けた成果です。ストロークとボレーはワンハンドで心配をしたのですが、力強いショットが打てるようになっていました。生活の全てを右手だけで行っており、他の選手よりも力はありました。もちろん、ひたすら練習をしたからですが・・・。
 頑張り屋の彼女でしたが、卒業してから「高校時代には何回も、辛くてテニスをやめようと思った」と話してくれました。そんな時に支えになったのが、仲間の存在だったようです。同期の女子たちはとにかく元気が良く、男子部員たちと一緒に、全国大会での上位進出を目指して、毎日厳しい練習を意欲的に行っていました。
当時の部員の合い言葉は「苦しい時のカラ元気」「地方の意地をみせてやろう」
特に女子は「清く・貧しく・美しく。いつも明るく・元気良く」でしたか。
 北野さんに障害があることは、部員誰もが知っているのですが、特別手を貸すことはありませんでした。ただ、北野さんから「お願い」と言われたら「はいよ」と言ってサッと誰もが行っていました。構えることがなく、自然な流れでした。
私も入学当初、筋トレの時だったと思いますが、「北野は・・・」と言いかけると「先生、出来ない時は、私言いますから」と言われたことがあり、私の気配り(北野さんにとったら迷惑な気遣い)は、1週間ぐらいだったと思います。
中学で特殊学級の担任を持った経験のある私ですが、北野さんや周りの部員から、多くのことを学ばせてもらいました。
 3年次、インターハイ予選の個人戦シングルでは、右手がテニス肘で痛んでおり、十分なショットが打てずに、地区予選で負けてしまいました。その時、仲間たちは、慰める言葉ではなく「何であすか負けるんだよ。私があの選手とやらなくちゃいけなくなったじゃないか」とか、そんな内容の連発で、北野さんも「ごめん、ごめん、後はまかしたよ」という内容の言葉でした。しかし、同期の生徒が家に帰り、北野さんが負けたことを告げつつ泣いていたことを、彼女たちの保護者から聞きました。
北野さんも家に戻ってからずっと泣いていたそうです。
 彼女は決して弱音を吐きませんでした。そして、最後までボールを追って走りました。ですから、部員誰も弱音を吐けず「走れ!」と、私が言わなくてもボールを追いかけていました。
浦和学院の監督福家先生(当時)に「松商は2つの武器を持っていますね」と言われ、聞き返すと「最後まで試合をあきらめないことと、最後まで走り抜くことです」と、お褒めの言葉を頂いたことがあります。(当時これくらいしか褒めていただく内容が無かったかも知れません)
しかし、北野さんが卒業してから3年ほど経ったある日、私が県内のある先生に、ぼやいたことがあります「何で最近の松商は走れなくなったんだろう」と。
その先生が即答しました。「北野あすかを、知らない部員たちだから」と。言われて、妙に納得したことを憶えています。後輩たちも北野さんのことは、もちろん知っているのですが、1年も重なっていないため、一緒に活動したことがありませんでした。
逆に、北野さんと一緒に汗を流し、涙を流し、クラブ活動できた生徒たちは、本当に多くのことを学ぶことが出来て幸せだったと思います。
自炊をしながらの合宿も、当時は数多く行いました。まさに「同じ釜の飯」の仲間たちです。今でもずっと友人関係が続いているようです。
 本校の放送部が北野さんを取材して、ラジオ番組を制作しました。タイトルは「これから、これから!!」です。平成8年全国NHK杯ラジオ部門で作品が第2位となりました。お母さんの番組内でのコメントで「あすかは我が家の宝です」は、とても印象的でした。
また「朝日スポーツ大賞」の特別賞にも選ばれ(授賞式は大学1年の5月)スキー複合の荻原や、スケートの清水らと受賞をし、その様子はTVでも放映されました。(テレビ朝日系)
 立命館大学の国際関係学科に進学し、かつて経験したことのない程、毎日勉強したとのこと「毎晩2時頃まで予習をしていた」のは本当らしいです。
 お酒が強く、京都の三条大橋東側にある居酒屋「万長」に、よく一緒に飲みに行きました。ある時マスターが「この前はありがとな」と北野さんに言うので、聞くと1人でも来ているというので驚きました。大学を卒業し、京都を離れる最後の夜も、その店で両親と食事をして出てきたそうです。私の行きつけの店だったのですが、北野さんに乗っ取られました。
立命館大学・京都での4年間で、多くのことを学び、一段とたくましくなった(女性に使うのはどうかと思うのですが)気がします。サークルやゼミでの仲間のことなど、いつも楽しそうに話をしていました。
 就職活動の時「私は当たって砕けます」と言って、ハガキを出しては、いくつも試験に行っていました。ある日、北野さんから電話が入り「先生、聞いて下さい。内定もらいました。どこだと思います?」聞き返すと、「フジTVです」と、通知をもらってすぐに電話をしてくれたらしく、興奮した声で返ってきました。面接では高校時代のテニスの話を中心にしたそうです。競争率はものすごかったようです。「仕事はアシスタントディレクターで、きっと弁当の手配とかの使いっぱしりですよ」と言っていたのですが、広報に配属になりました。
週に7本のアニメの担当になり「こち亀」でも字幕に「広報 北野あすか」が流れ出しました。ドラマやバラエティー番組も担当し、2年ほど前までは「トレビアの泉」も担当していました。昨年からは朝の「特ダネ」のディレクターになり、火曜日の8時からは彼女の担当だそうです。「政治のことを、こんなに勉強したの初めてです」と衆議院選挙前、電話で話をしていました。
ハードスケジュールで休みもなく、本人曰く「アップアップ状態」だそうですが、会話の中から、仕事に対する充実感が伝わってきました。
 「白線流し」というドラマご存じでしょうか?松商学園高校の校舎や周辺が舞台(ロケとして)で、北野さんが高校2年の冬から撮影が開始されました。テニス部員もコートで京野ことみさんと一緒に(もちろんエキストラとしてですが)出演しました。北野さんも出ていますが、周りのボールパーソンだったと思います。(一瞬、映像に現れます)
3年ほど前、本校に「白線流し」のスタッフとして来ました。脚本家や監督、局長を連れて、スペシャル版のネタ探しと打ち合わせにです。初めて仕事ぶりを見ましたが、本当に立派になっていて驚かされました。
また、東京に戻って、局長のところに行き、ある抗議をしたそうです。
後日、局長からメールにて「北野さんが、フジTV側に失礼があったと、涙の抗議をしてきた」というのです。先生方への態度が失礼だったと。私たちは一切感じなかったのですが、局長からお詫びと「北野さんは本当に心の強い女性ですね」というコメントも付け加えられていました。
仕事場で、颯爽と歩く北野さんの姿を、思い描きました。
その「白線・・・」ですが最後のスペシャルが、この10/7に放映されます。
北野さんの後輩たちテニス部員も、コートでの撮影ではありませんでしたが、エキストラで出ています(黒い顔をしているのはテニス部員でしょう)
 取り留めもなく、長い文章になってしまいました。1、2枚程度で書き終えると思っていたのですが、思い出しながら授業の合間に、だらだらと書いてしまいました。
書き始めて、もう3日目になりますから。
ただ、先生が書いておられる「テニス部通信」をHPより読まさせていただき、同じ感覚で生徒を指導されているのではないか、という気持ちもあり、書かせていただきました。(お会いしたこともないのに、失礼かと存じますが)
 長野もこれから短い秋を経て冬へと向かいますが、北海道はより足早に、テニスをする生徒たちにとったら厳しい冬が訪れることと思います。先生のことですから、きっと工夫され練習されると思いますが。お体に気をつけ頑張って下さい。
それでは失礼します。                          敬具
  平成17年9月29日(木)
小林 正則

追伸 あと1時間後に、全国選抜の北信越予選に出発します。今年は新潟です。
   頑張ってきたいと思います。