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本文へジャンプ 松商監督 小林正則  
北海道栗山高等学校  テニス部通信   2005. 8. 27.  文責:佐々木雄介
CHANGE OF PACE 第11号
Kさんのこと


 当時、Kさんは17歳。素晴らしいフットワークと、切れのいいトップスピンのフォアハンド、真っ黒に日焼けしたショートヘアの彼女は、どちらかと言えば気の強そうな瞳と、時折口元からのぞく白い歯が印象的だった。北信越代表の松商学園は、その年の全国選抜高校テニス大会でもベスト16に進出した長野県の強豪である。Kさんはその第2ダブルスの選手として出場したのだ。

 Kさんには左腕がない。白いポロシャツの袖から出た細い腕は、その肘から先の部分が、どこか違う次元の空間に吸い込まれてしまったみたいに見えなくなっていた。
 左の脇にラケットが挟みつけられ、右手で高いトスが上げられる。次の瞬間、ラケットは素早く右手に持ち替えられ、振りかぶられて、彼女の精一杯のパワーを乗せたサーブが打ち込まれる。トップスピンに鋭く回転するボールは、サービスラインがセンターラインやサイドラインと交差する辺りに正確にコントロールされて高く弾む。フォアのストロークは、私がこの年に引率したチームのどの選手より速くてパワフルだったと思う。ウィークポイントはバックハンドである。右腕一本ではテイクバックも容易ではない。バックサイドを狙われることも多いのだ。しかし彼女はラケットを立ててユニットターンするテイクバックで、丁寧なスライスをかけて相手エンド深く打ち返す。
 見事としか言いようがなかった。そして何よりも、彼女は生き生きと輝いていた。はつらつとコートを走り回る姿は、17歳の生命感の中で眩しいほどの光を放っていた。同情などでは決してない。むしろあの時、私は彼女に恋をしていたのかも知れない。

 彼女は生まれつき左手が不自由だったそうだ。中学でソフトテニスを始め、高校に入って硬式テニスを選んだのだ。練習中は、部員の誰一人として彼女の左腕のことを気遣ったりしない。というより、忘れているそうだ。靴ひもを結ぶようなときに改めて彼女の不自由な左手のことを思い出すのだと、先生は話してくださった。

 公式練習では、彼女の必死のラリーの最中にさえ、シャッターがバチバチ押され、翌日の新聞には写真入りの記事がデカデカと掲載された。読みながら、私は少しだけ違うような気がした。左腕がないという事実が特別なのではない。夢を信じて様々な困難を乗り越えた彼女の一生懸命が素敵なのだ。それは頑張ったどの選手にとっても同じことで、彼女の場合、乗り越えた困難があまりに大きかった、それだけに過ぎないのだ。少なくともテニスをしているときのKさんは、左腕のことで自分を特別だとも「かわいそう」だとも、思ったことはないに違いないから。

 それから1年半後、私は京都で行われたインターハイの会場で、母校を応援する彼女の姿を見かけた。立命館大学に進学したという彼女は、日焼けの色もすっかり落ち、美しい大人の女性に成長していた。